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小さな植林隊
活動報告 2018年(平成30年) 8月26日(日)
インドネシア ボルネオ島 植林 アブラヤシプランテーション視察 プラスチックごみの状況 その2
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さて、翌早朝。 現地時間で朝4時30分(日本時間で6時30分 インドネシアは時差2時間)。 ジャカルタの空港から飛行機に乗ります。
この様な橙色の朝日も、煙の影響によるものだそうです。 前ページの冒頭で紹介した森林火災が結構ひどいのではないかと、少し先が心配になりました。
空港にはボルネオ島の象徴、オランウータンの写真が大きく壁に貼ってありました。 空港からはブルータクシーに乗り、最初の目的地、FNPFの事務所へ行きます。
バスキさんは、過去に違法伐採に加担していたのですが、その後、心を入れ替えて、 森林保護活動を現地で先導しています。 11人の仲間と共に、年間150万本の木を植える目標を立て、国立公園内は在来種、 それ以外の場所では実の成る木、換金可能な樹種などを植えています。 違法伐採は1970年代から始まり、1990年頃から政府は伐採を許可制にして 伐採する者に再植林の義務付けしたけれども、それは守られず、 軍と警察が結びつき、さらに色々な地域から人が集まって違法伐採が横行しました。 2000年代は政治との癒着もあり、国立公園の中でも堂々と違法伐採がされていました。 今は切る木がなくなってきたため、伐採会社の多くが破産しました。 他に、金の違法採掘もされてきました。 そして、現在は、村人の約8割が、パーム油がとれるアブラヤシのプランテーションで 働いています。元は多くが農民だった人たちです。 アブラヤシプランテーションは現在1400万ヘクタールもあります。 多くの熱帯林が切り開かれ、そこに住んでいた様々な生き物達は、追い払われ、 姿を消していきました。 しかし、そういった中でも、ダヤックの先住民は今でも強固に森を守っています。 そして、最近では若者の意識が変わってきたと感じるようになったそうです。 私が、国からの助成金はあるのかたずねたところ、過去に、タンジュンで8000ヘクタールの 政府主導の森林回復プログラムが実施されたけれども、失敗に終わったとの事でした。 現在は国の計画として5000ヘクタールの森林回復計画があるけれども、その予算はついておらず、 実質は国立公園の事務所がプログラムの運営を担当しています。 FNPFとしてはできるだけ国の助成金には頼りたくないそうで、活動資金を得る為に、 アブラヤシプランテーションを実施する企業や、金採掘を行う企業に対して、 CSR活用の提案をしています。また、海外からの支援金は積極的に活用しているとの事でした。 今後は、年に200万本の植林ができるようにしたいと語っていました。 2018年はこれまで、1ヶ月に大体6~10万本、1ヘクタールあたり1万本植えているそうです。 ちなみに前述したとおり、日本の一般的な林業では1ヘクタール当たり3000本を植えています。 (日本の林業と、熱帯林の森作りは単純に比較はできませんが。) また、バスキさんのお話では、現在、村の人たちはほとんど自給していないそうです。 それは、過去、ボルネオ島のいたるところに、「排水路」が掘られて土壌が乾燥化し、 土の塩分濃度が上昇する塩害が発生して土壌環境が悪くなったり、あるいは洪水が 発生したりして、農業がやりにくくなった為、という事でした。(排水路については後ほど紹介) プランターで野菜を作っていた人たちもいたけれども、最近はそれも減り、 野菜売りの人が来るようになって、村人はそこから野菜を買うようになったそうです。 木材や金、パーム油など、海外からの需要によって、現地の人達が色々影響を受けていると感じました。
この後は、近くのお店で昼食を取る為、歩いて移動します。
歩いて10分くらい経ったところに、お昼を食べるお店がありました。
お昼ごはんは、ナシゴレン。 インドネシア語でナシはご飯、ゴレンは炒める、つまりチャーハンです。 味は辛くなく、とってもおいしいかったです。日本人向けの感じ。 ここも肉、卵抜きのベジ対応してくれました。 ナシゴレンとつめたいお茶のセットで、値段は1万6千ルピア。 インドネシアの物価は、値段を100分の1にすると大体日本円という感じなので、 1万6千ルピアは、日本円で約160円。 観光客向けではなく、地元の人向けのお店という感じですね。 気になった点を挙げるなら、お皿の淵が黒ずんで汚れていたり、 飲み物のグラスの飲み口が欠けていたり、 すぐとなりで大音量のカラオケが行われていた等ありますが、この程度なら許容範囲。 むしろ地元の雰囲気を感じることができたので私は満足でした。 お店の方に、エナック スカリ(とてもおいしかった)と、早速インドネシア語を使って会話。 ついでにお手洗いを借りたいとお店の人に言ったら、一段上がって奥にあるということで、 靴を脱ぐよう言われたので、靴下でトイレまで行くと、便器の周りの床は水で濡れており、 ちょっと靴下では到達できない状態でした。 しかもトイレが、日本人には馴染みの無い、紙を使わないトイレ、 つまり、お尻を左手で拭いて、それを桶の水で流す、という現地の本格的なトイレでした。 ネットで調べてもらえばわかりますが、日本とはちょっと違います。 初めて見て、ああ、これか、と納得し、今はまだその時ではないと、 ひとまず、そこのトイレを使用するのは諦めました。 さて、その後は車で町まで移動し、民家の裏路地を歩いて船着場へ向かいます。
船に乗って2時間近く川を進みました。風が気持ちよく、景色も最高でした。 船に乗っている間、現地の青年団の若者が英語で色々話しかけてきました。 名前はADUT(アドゥ)。とても明るく、気さくな感じの若者です。(左奥ピンクのシャツを着た人。) もう1人はIKURA(イラ)。青年団のリーダーです。 インドネシアには元々たくさんの部族があり、それぞれ違った言語を話すのですが、 それだと困るので、インドネシア語が共通語として使われています。 つまりインドネシア語は、インドネシア人にとって、第2言語であり、日本人にとっての英語の様なもの。 なので、英語となると、インドネシア人にとって第3言語の様な感じになり、あまり一般的ではありません。 しかし、この青年団の2人は、私達に対して英語を使っていました。 そして、目的地のハラパン村に到着。
船を降りると、日本の参加者が名前を呼ばれ、ホームステイ先の家族と対面。 対面するたびに歓声があがっていました。 私の名前が呼ばれると、受け入れ先の人と思われる女性が大きな声で笑っていました。 名前はMIAH(ミアー)。とにかく声がでかくてとっても元気な方です。 周りの人も一緒に笑っていました。 私があまりにイケメン過ぎるためか、あるいは単に坊主が珍しかったのかわかりませんが、 とりあえず非常にウケていたので、一緒に笑っていました。笑 一通り皆の名前が呼ばれて対面が終わったら、MIAHと一緒に歩いて自宅まで案内してもらいました。
村はL字型の様な感じで家が並んでいました。 村の端から端まで歩いて大体10分~15分程度。 上の写真にはバイクが写っていますが、村内の移動だけならバイクは必要ない程度の大きさです。 車は走っていません。 村内には小さな雑貨店の様なものが1つ、学校が1つ、という感じでした。
さて、話を戻します。 私は海外のホームステイは初めての経験です。しかもインドネシア語は英語と違います。 ここでは基本的に英語は通じません。(青年団の何名かは話せますが。) 旅行の3ヶ月位前からインドネシア語を勉強し始め、インドネシア人の大学生に先生になってもらって会話の 練習もしてきましたが、付け焼刃の様なもの。日本から持ってきた2冊のインドネシア語の本が頼りです。 宿泊先の家についたら、日本で買ってきたお土産(お菓子類)をさっそく渡して、 日本で作ってきたあいさつ文を見ながら、インドネシア語で自己紹介をしました。 私が寝泊りするお部屋はベッドと椅子とたんすがある、4畳位のお部屋ですが、 きれいに片付いていました。お茶とブドウの様な果物をいただきました。 その後、各自荷物をそれぞれの宿泊先に置いてから一度集まり、この日の夜の食事について 説明がありました。 説明後、解散し、夕飯前にマンディ(水浴び。日本で言う、お風呂)を済ませました。 お家の様子は次のページで紹介します。 そして夕飯。 日本の参加者全員で集まって食事をしました。 インドネシアには、テンペという大豆を発酵させた食品があります。 日本ではベジやヴィーガンが利用する肉の代用品、大豆ミートというのがありますが、それに似ています。 テンペは一般的に使われており、ここでもそれが使われた料理がでました。おいしかったです。
さて、話を戻します。
自己紹介は、一人一人通訳を介したので結構時間がかかりました。 交流会ではお酒も回してくれたので少し飲みました。 若い青年団の人たちは宗教の戒律については、さほど厳格ではない様です。 お酒は世界共通ですね。(^-^) こうして無事最初の夜は過ぎていきました。 その3へ続く |