小さな植林隊





2007年 10月28日(日) 足尾の歴史、田中正造めぐり





10月28日(日) 6時50分起床


昨日の天気とはうって変わってこの日は快晴。(^-^)
とってもさわやかでした。

食堂で朝ごはんを食べてから部屋の布団をたたみ、掃除します。
なんだかんだで宿を出れたのが8時30分。
小林さん達とは佐野駅に9時に集合でしたので冷や冷やでした。
そんなあわただしさの中とりあえず記念写真。


佐野駅についたのが9時10分頃。小林さんたちはすでに到着していました。
待たせてしまってすいませんでした。

挨拶した後、一人9枚ほどの資料が手渡されました。
今回、私達のためにわざわざ無償で用意してくれていました。本当に有難う御座います。

この日回るコースは以下のとおり。

惣宗寺(そうしゅうじ)
佐野市郷土博物館
田中正造生家
雲龍寺
田中正造記念館
昼食
渡良瀬遊水地
北川辺の駅




さてこの先を読む前に是非みんなに読んでほしいところがあります!

不屈の田中正造伝

必ず上のページを見てからこの先を見てください。
じゃないとただの観光案内でたいして面白くありません。
短編小説くらいの長さですが、田中正造が戦ってきたこと、足尾鉱毒事件、谷中村の事実が
わかりやすく書かれています。
「次」をクリックして読み進めていってくださいね。




先導の車についていき、まずは惣宗寺へ向かいます。
ここはみんな一度は聞いたことがあると思いますが通称、「佐野厄除け大師」です。

惣宗寺では石川啄木の碑と田中正造のお墓を見ました。
石川啄木の碑 田中正造のお墓

石川啄木の碑には以下のようにあります。

「夕川に 葦は枯れたり 血にまとう 民の叫びの など悲しきや」

田中正造の本葬がこのお寺でされ、その遺骨は6箇所に分骨埋葬されました。
数万人の会葬者が集まったとされています。

田中正造は天然の石を好んで集めていたので、墓石は渡良瀬川流域産の天然石を使用しています。
墓石には
「嗚呼慈侠 田中翁之墓」
との文字が国会議員時代の盟友だった島田三郎によって刻まれています。



次に向かったのは佐野郷土資料館です。
ここでは田中正造の遺品や天皇に対しての直訴状などが展示してありました。
田中正造です。 中央に銅像がありました。
鉱毒による麦の立ち枯れです。 田中正造の遺品です。
(写真:佐野市郷土博物館さんから許可を頂きました。有難うございます。)



次は田中正造の生家に行きました。
田中正造の生家 小林さんが色々説明してくれました。

田中正造は亡くなる前に宅地と田畑の全財産を小中農教倶楽部へ寄付しました。
1990年、道路拡張のため改修・移動させられました。



次に向かったのは雲龍寺です。

ここは地理的に鉱毒被害町村の中心地で、栃木、群馬、埼玉、茨城の4県の鉱毒被害民の闘争本部となりました。
ここに被害民が大集結し、東京まで大押し出し(請願行進)が行われました。

ここにも田中正造の分骨が埋葬されています。
また田中正造が病床で叫んだ
「現在を救え、ありのままを救え」という言葉から名づけられた救現堂がありました。



次に向かったのは田中正造記念館です。
館内の方が展示パネルを使ってわかりやく説明してくれました。

ここでは説明役が小林さんから館内の方に変わりました。
田中正造記念館ではありましたが、水俣病についての説明もしてもらえました。
足尾鉱毒事件と水俣病の関連、それは国民に対する国の対応が不誠実ということです。

時代は流れても中身は変わっていません。
今現在もC型肝炎の問題で被害者をわけようとするなど卑怯な手段を使っています。
こんな状態で美しい国という言葉は使えませんね。
といってもそれを言っていた人はすでにやめてしまいましたが。


昼食は佐野ラーメンです。
餃子とラーメン相性が抜群でした!


昼食後は渡良瀬遊水地に行きました。
ただただ葦が生い茂るだけの広い空間でした。

ここ渡良瀬遊水地は谷中村を廃村にして作られました。
足尾から流れる鉱毒をここで沈殿させ下流に流れないようにするためでしたが、
これは足尾鉱毒事件の本質を解決するものではありませんでした。

田中正造はここに移り住み谷中村民として一緒に国に対して戦いましたが、
結局村の家屋は強制破壊され村は水没することになりました。

今となってはただ静かに葦が風に吹かれて揺れているだけです。

雷雷神社跡、共同墓地をまわり今回の田中正造めぐりは終わりました。
最初から最後まで案内・説明をしてくれた小林さんとおいぬまさん、
そして調整役をしてくれた森戸さんにお礼申し上げます。



歴史の教科書でしか聞いたことがなかった田中正造ですが、
佐野地区には色々な物が保存されており、お話を聞きながらそれらを見て周ることで
村人の英雄だったことを体感しました。

田中正造が生きていたのは明治の戦争時代。
世界では植民地政策時代、国内では日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦などがあり、
銅は輸出品として外貨を稼ぎ、武器を入手する手段でありましたが、
その銅の生産元である足尾銅山を閉鎖しろと言っていた訳で、
世の中の動きと全く逆のことで相当の逆風を感じていたと思います。
しかし田中正造はただ、農村を救いたい、実り豊かな渡良瀬川周辺の自然を元に戻したいという一心で
その逆風の中、国を相手に戦いました。

結果としては谷中村は廃村となり、田中正造の死後も、足尾銅山の銅が取れなくなるまで採掘され続け
田中正造の活動が国に勝ったとは言いがたいですが、
しかし、不正義を認めず、最後まで諦めず、弱い立場である村民、そして自然の側に立ち
戦い続けた事は、田中正造が亡くなった後も評価され、
その活動が正しかったことを物語っています。


そしてこれは今の世の中にも当てはまることだと思います。

当時の兵器による戦争から経済の戦争と形を変え、また、銅の採掘から、
石油やその他多くの資源の採掘となり、渡良瀬川周辺という一部地域で起こった公害問題だったものが、
地球温暖化という世界規模での環境破壊となっています。

同じことが規模が拡大して起こっているわけです。

田中正造が足尾銅山の閉鎖を求めていたことを現在に置き換えるなら、
石油採掘の停止を求めるようなものです。
地球温暖化防止のために、動植物、人間の命を守るために、経済活動の元となる石油採掘の停止です。
普通なら極論としか捉えられません。

しかしもし田中正造が今現在生きていたなら同じ様に地域を走り回って訴え続けていたかもしれません。
そういう逆風の中を信念だけで突き進む田中正造はやはりすごい人だったのだと思います。

それから、雲龍寺に集まって一斉押し出しに参加した人達というのは、
今で言うなら環境破壊の実態を知り、それを防ごうと実際に行動に移す人達です。

私達も後世の人達に評価されるように、行動に移して地球温暖化、環境破壊を止められるようにしたいですね。

知っていて行動に移さないのは知らないことと同じです。

難しいのは習慣からの脱却ですが、意識を変えれば習慣を変える事はできます。

お金の事よりも環境のことを先に考えられるようになりたいですね。


私達小さな植林隊はまだ結成したばかりで微力ですが、みんな環境に対して高い意識を持っています。

それぞれが周りの人に影響を与えて、さらにそれが広がっていけばいいなと思っています。





きれいな自然がこれ以上なくなっていかないように、これからもみんなでがんばりましょう!(^-^)/

今回も2日間お疲れ様でした。







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